トップメッセージ

代表の吉田有は、神奈川県の大磯町で生まれ育ちました。
日本郵船の船医であった祖父の影響を強く受け、また仏教学者であった曾祖父(大内青巒)は曹洞宗関係の仕事をしており、食事前には「敬鉢の偈」というお経を唱え、仏教彫刻が身近にある家庭でした。

吉田有の社会人としての第一歩は東南アラスカにパルプ工場と製材工場をもつ「アラスカパルプ」からスタートしております。
こちらは半国策的な企業で日本政府とアメリカ政府の合意のもと、アラスカの伐採権を50年間取得し操業をするというもので、海外で働くことに憧れていた吉田にとって理想的な場でした。
丸の内本社で2年間勤務後、シトカという東南アラスカの町に赴任。パルプや製材の原材料となる原木を調達するセクションで、現場の状況を把握するのが主な仕事でした。
アラスカの伐採現場では一歩奥に入るとクマが出るところもあり、ライフル銃とコークシューズで山へ入り、ロギングカンパニー(木こり会社)のボスたちと親交を深めました。
シトカから伐採現場へ行くセスナ機からアラスカの山々を見下ろした光景は、広大な大自然の素晴らしさを満喫できるもので、吉田の脳裏にはいまでもその光景が焼き付いています。

そんな体験のなかで、吉田の人生に大きく影響与えた出来事がありました。それは、シトカ市から車で30分ほどのところにあるハーバーマウンテンにハイキングに行ったときのことです。山のピークまで行き、そこに座って周りを見渡すと人の姿はどこにもなく、心地よい風に吹かれながら、今までに経験したことのない至福感を得たのです。
それは大自然と一体となったような気分であり、それを後に、禅を勉強するなかで「独坐大雄峰」という心境だったことを知ります。

また吉田は、30歳のときに義父の経営する製版会社が投資したアパレル会社への転職を勧められます。
ですが、吉田には赤緑色弱という身体的ハンディキャップがあり、新天地では苦戦するだろうという不安や迷いがありました。
そんな中、自分の人生を見つめるために永平寺に1週間ほど篭り、そこで初めて、坐禅や禅の修行を本格的に体験します。そこでの体験がまた、吉田の人生を大きく変えます。転職への覚悟ができ、当時の上昇基調の時代背景もあり、事業は順調に延び、夢であったアメリカ進出も実現。カリフォルニアのサクラメントに「TOKIO」という寿司レストランをオープンするまでに至ります。
ですが、バブル崩壊とともに大手の得意先の業績が低迷。吉田が50歳の時、この事業の継続を断念することになりました。
当時代表権のあった吉田はその全責任をとり、持っていた資産はすべて手放し、人生を再開せざるを得ない状態となります。
今後のことを考えていたときに、米国のビジネコーチドットコム社長のゲーリー・へンソンを紹介されたことがまた転機となり、友人と「ビジネスコーチ」というビジネスに特化したコーチング会社を設立。設立2年目にゲーリーから紹介を受けたWABCというコーチング協会のコンベンションに参加し、そこでマーシャルゴールドスミスという世界No1のエグゼクティブコーチと知りあい、彼を日本へ招聘することになります。マーシャルが仏教徒であったこともあり、縁は急速に深まり、会社も大きく成長しました。

61才でビジネスコーチ社を卒業。ずっと考えを温めていた、禅的なアプローチをビジネスの現場につなげたいという思いから「ZENトレプレナー研究所」を設立。これからの時間は、人生の使命を果たすべく、自らもZENトレプレナーとしてSDGs時代に必要とされる真のリーダーを支援していきたいと活動しています。

2011年に青森県観音寺で在家得度。
毎夜、座禅と星空を見上げる習慣を欠かさず続けている。
10年日記は継続20年を越えた。